虹ヶ咲の舞台「お台場」はどこにある?

東京臨海副都心の位置感

「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」の舞台であるお台場は、神奈川から千葉まで伸びる東京湾のうち、国内外の物流拠点である東京港や都心部に隣接した場所にあります。独特な形の土地が多いことから察せられるように、この辺りは造成された埋立地(人工島)が並んでいます。

お台場と呼ばれるエリアはそのひとつであり、戦前から徐々に造成された複数の埋立地に跨がっています。そして1989年より大規模開発が始まった東京臨海副都心の一部になっています。副都心とは、都心部(千代田区・中央区・港区周辺)の混雑を緩和するために、戦後その外周に開発された地域を指します。新宿から始ま7番目にして最後の副都心として1996年にオープンしました。

ニジガクが活動する舞台は、いわば東京の経済発展によって生まれた人工島と計画都市の上に成り立っています。海と言えば『ラブライブ!サンシャイン!!』のイメージが強いですが、漁港代わりに国際的な物流の港が多数隣接しています。虹ヶ咲の舞台もまた海との縁が深いところにあります。

お台場がある東京臨海副都心の誕生

 この街は1970年代末より東京港を象徴するシンボルゾーンとして活用する話が立ち上がったのを始め、1980年代末にはオフィス需要逼迫解消と21世紀に向けて情報化を先取りした街「東京テレポートタウン」として開発が始まります。同時期には周辺で幕張新都心・さいたま新都心・みなとみらい21の開発も進み、関東圏に留まらずこうした計画都市の開発が進んで行きました。

1985年に公表された東京テレポート構想の開発イメージ図

 テレポートとは、都市の成長を牽引したのはポート(港)であるとの考えに基づき、19世紀はシーポート(港)、20世紀はエアポート(空港)、そして21世紀はテレポート(※Tele+Communication Portから情報の港を表し、当時は衛星通信基地を指しました)であるとして国内外で街開発のコンセプトに取り入れられたものです。青く目立つテレコムセンタービルはその衛星通信基地と情報化に対応したビルとして建造されたのでした。

残念ながらテレポートタウンの名称はバブル崩壊や世界都市博覧会中止などによる開発見直しにより事実上消えてしまい、現在はりんかい線の駅名や企業名、そして街中の古い案内看板で目にする程度に留まります。 さながらシムシティのような光景が広がった大規模開発は1989年から始まり紆余曲折を経て1996年街びらきを迎えます。

 街びらき当初お台場を一躍有名にした『踊る大捜査線』シリーズでは進化し続ける街としてお台場は描かれました。一方の2020年に制作されたテレビアニメ『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』では侑と歩夢が変わらないはずの日常を過ごせる街として描かれています。そんな臨海副都心は台場地区・青海地区・有明南地区・有明北地区の4つに分けられ、現在も地区ごとに住宅・商業・研究・展示会場といった特色のある街づくりが進められています。

台場地区 (港区台場・品川区東八潮)

青海地区 (江東区青海)

有明南地区 (江東区有明)

どこまでがお台場?

 何気なく使われる「お台場」の名前。住所としては存在せず、呼び名のルーツは江戸時代に築造された品川台場(第三台場・第六台場)まで遡ります。普段見聞きするお台場の範囲は、残存する第三台場・第六台場に加えて東京臨海副都心のうち港区台場から江東区東八潮・江東区青海へまたがる観光・商業・研究エリアを指すことが多いです。単なる「お台場」以外にも、ラブライブ!公式「お台場エリア」「お台場地区」などと呼ばれることもあり、結構ふんわりしています。観光サイトや宿泊予約サイトを基に範囲をざっくり図示するとこのようになります。

お台場エリアの一例。なお青海ふ頭にも「お台場ライナーふ頭」があり臨海副都心外にもお台場を冠した施設が存在します

 元々この臨海副都心には「東京テレポートタウン」(1987)と「レインボータウン」(1997)の公式愛称がありました。しかし実際には「お台場」が定着しています。背景には石原都知事時代(2000年代)のお台場カジノ構想があると言われますが、誰かが予めお台場の範囲を決めた訳ではなく事実上定着した名称に近くなっています。例えば臨海副都心に進出する事業者で構成される東京臨海副都心まちづくり協議会では、お台場を台場・青海・有明の総称としています。そのため、虹ヶ咲学園の所在地がお台場と呼ばれるように、一般に「有明」と呼ばれる東京ビッグサイト周辺も文脈によってお台場に含められます。

お台場の始まり- 品川台場

 お台場の名称のルーツとなった品川台場(品海砲台)はペリー来航に伴い築造されました。

上陸禁止の第六台場とレインボーブリッジ

 1853年に開国を迫るペリー艦隊が東京湾へ進入したことで、目と鼻の先まで入られた江戸幕府は国防の危機を募らせます。

幕府は対処に伊豆韮山出身の代官 江川英龍(えがわひでたつ)を任命し、彼はかねてから考えていた東京湾への防衛網の構築を提案します。予算難もあり全ては実現できませんでしたが、膨大な労働力と埋立技術によりたったの1年程度で品川沖に6基もの海上要塞(台場)を完成させたのでした。

韮山反射炉をバックに設置されている江川英龍(坦庵)像

伊豆韮山とは『ラブライブ!サンシャイン!!』の3rdシングル「HAPPY PARTY TRAIN」もお馴染みの沿線です。彼が品川台場を構築する場所を変えていればその後の開発も変わり、いまとは違う街になっていたかもしれません。ラブライブ!シリーズの舞台同士で密接な繋がりが見られるのは面白いですね

同様の繋がりはSaint Snowの地元である五稜郭にも見受けられます。品川台場が実戦に至らないまま日米和親条約が締結され、箱館港(函館港)が開港し1864年には五稜郭が築かれます。海上の要塞として築かれた品川台場と陸の要塞として築かれた五稜郭には共に開国をキーワードに繋がりが見られます。

五稜郭タワーから眺める五稜郭

 話は台場に戻り、その台場を庶民がお上のものとして「御」を付けて「御台場」と読んだことが始まりとされます。実際に台場が戦争で使われたのは太平洋戦争の防空砲台程度とされ、一部は民間の造船所、牡蠣養殖場、戦災孤児の収容施設などとしても使用されました。三船栞子ちゃんが「EMOTION」を披露したシーフォートスクエアの真下には第四台場が埋没しています。

台場公園の敷地内

大正時代に復元された砲台

戦後東京の経済が急速に発展し、東京港に分布している台場は大型船の往来の邪魔になっていきます。1970年代までには大半が切り崩されるか埋立地に埋没する形で姿を消し、現在は相対保存として公園になった第三台場(台場公園)と絶対保存として手つかずの第六台場が残るに留まります。

実は舞台も虹の名前が付けられています - 「レインボータウン」

実質的にはお台場で定着していますが、東京臨海副都心には今まで2つの愛称が付けられています。

 1つは既に触れている「東京テレポートタウン」(1987)です。現在も東京テレポート駅の名称で目にする名は、臨海副都心自体が当初衛星通信基地「東京テレポート」を作る計画を端に発し21世紀の国際化・情報化を先取りした副都心へ変化していく中で付けられたものです。 奇遇なことに、当時の公募名称の候補には虹ヶ咲と異口同音の「虹ヶ崎」もありました。ちなみに、臨海副都心開発のきっかけとなる構想には「レインボープラン」と名付けられる予定でしたが、当時は儚く消えそうなイメージがあるとして採用されなかった経緯があるとされます。

虹が浸透するきっかけとなったレインボーブリッジ (1993年開通)

フジテレビ本社前にある案内看板には今もレインボータウンの名があります

 2つめは「レインボータウン」(1997)です。開発の仕切り直しの中で公募され、シンボルとなったレインボーブリッジのイメージも踏まえて決定されました。実は虹ヶ咲の舞台そのものに虹の名前がついているわけですが、結果的に「お台場」に取って代わられてしまいました。現在はフジテレビ本社前の看板などでその愛称を目する程度に留まります。それでも臨海副都心の商業施設や街中では度々虹をモチーフにしたものを目にします。折角でしたら、舞台巡りをしながら探してみるのも面白いですよ。